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ケン・シェリト 1940-2018

チェルシーフットボールクラブはブルーズで選手や監督として活躍したケン・シェリト氏の78歳での訃報を受け、悲しみに包まれています。

地元育ちのシェリトは1960年代、クラブの昇格に貢献。イングランド代表でのプレー経験もあり、チェルシーではユースコーチを経たのちに、1977年から1978年はファーストチームの監督を務めた。

東ロンドン生まれのシェリトは14歳でチェルシーに入団。奇しくもその日はジミー・グリーヴスが契約書にサインした日と同じであった。

シェリトは1958年のFAユース杯準優勝に貢献した。

ファーストチームデビューは翌シーズンの終盤、ノッティンガム・フォレスト戦だ。トミー・ドチャーティが監督に就任した1962年や、その後のテッド・ドレイク監督のもとでシェリトは日の目を浴びることに。

トップリーグから降格したばかりのチェルシーはドチャーティ監督のもとで1部復帰を狙う。シェリトは攻撃的なサイドバックとしてチームを支えた。

右サイドバックにはシェリト、左サイドバックにはエディ・マクリーディが位置し、2人はイングランド代表でも同様のポジションで躍動した。

「1962年のプレシーズンでは、今までと全く違ったトレーニングをしたよ」2008年、シェリト氏はウェブサイトのインタビューに次のように語った。「トミー・ドチャーティが来て、このようにプレーするんだと教えられた。自分はパスを回して、もっとプレーに関わりたかったけど、あまり上がるなと言われたよ。ただ、トムとデイヴ・セクストン(後にチェルシーの監督、そしてドチャーティの助監督を務めた)が試合を変えた。エディと自分がそうして、他のイングランドのクラブも続いたよ」

チェルシーはすぐに昇格に成功する。1962/63シーズンには長いウィンターブレイクが設けられた。’ドチャーティ・ダイアモンド’は止まることを知らない強さを見せ、最終節にはポーツマスを7-0で撃破したものの、チェルシーはリーグ2位に終わった。シェリトはリーグ戦42試合中34試合に出場している。

シェリトのイングランド代表デビューは1963年5月、チェコスロヴァキア戦だ。1966年のW杯では右サイドバックとして活躍。しかしシェリトは続く10月のシェフィールド・ウェンズデイ戦で深刻な膝の怪我を負ってしまう。シェリトはイングランド代表として世界選抜戦に臨む予定だったが、怪我のため断念せざるを得なかった。

度重なる手術を乗り越え、シェリトはチームに復帰。リーグ戦ではチェルシーの上位フィニッシュに貢献すると、イングランド代表にも復帰した。しかし膝の故障を感じ続けていたシェリトは1965年12月にチェルシー最後の試合を終え、現役から引退することとなった。

「ジョージ・コーヘン(W杯優勝経験のある右サイドバック)に会うと、いつもありがとうと言われるんだ」シェリトは2008年、インタビューにそう答えている。

「苦しい気持ちもあるけど、彼は感謝していたんだ。自分が怪我をしていなければ彼はピッチに立っていなかったかもしれない。でもそういった幸運もフットボールだ。自分にとっては悔しいことだったよ」

シェリトはチェルシーで123試合に出場し、2ゴールを記録(1964年3月、4-3と勝利したバーミンガム戦と1964年8月、3-1と勝利したサンダランド戦)。現役引退後はユースチームのコーチとしてレイ・ウィルキンスやクライヴ・ウォーカーを育て、財政難に陥っていたクラブにとって大きなものをもたらしている。

外部からの補強ができなかったチェルシーは若手選手を起用し、1977年に昇格に成功した。

シェリトとともにサイドバックとして活躍したマクリーディはシーズン終了まで監督を務め、シェリトがその後を継ぐ形となった。

トップリーグでの初シーズンは降格を免れ、FA杯ではリヴァプールを倒したブルーズだが、翌シーズンには再び苦しむことに。シェリトは1978年12月にチームを離れた。チェルシーは依然財政難であり、それがシェリトの仕事を難しくさせた。

チェルシーを離れたシェリトはケンブリッジ・ユナイテッドの監督を務め、その後はマレーシアのサバーへ。サバーでは若手選手を指導すると、チェルシー財団とともにサバーでグラスルーツフットボールプログラムを開催している。

チェルシーフットボールクラブはケンの家族や友人に深き哀悼の意を表します。

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