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チェルシー・ジャパン会長の徒然話(1)- チェルシーと私

初めまして、チェルシー・サポーターズ・クラブ・オブ・ジャパン(Chelsea Supporters Club of Japan、以下チェルシー・ジャパン)の会長を務めている藤永と申します。

「チェルシー・ジャパン会長の徒然話」と題して、このチェルシー・ホームページの日本語サイトにこれから時々コラムを書くことになりましたので、どうぞよろしくお願いいたします。私は2003年に、20年間の海外生活を終えて日本に戻ってきました。その時に、何かチェルシーに貢献できることはないものかと考えて、日本で最初のチェルシー・サポーターズ・クラブを創設しました。その辺りの事情はまた別の機会に書こうと思いますが、第1回のこのコラムでは、私がチェルシーを知ることになったきっかけと、チェルシーと私の縁について書こうと思います。

このコラムを読んでくださっている方々は皆さんチェルシーのファンだと思いますが、ファンになったきっかけは個々それぞれでしょうし、クラブに対する入れ込み方も千差万別だと思います。私がチェルシーの事を知ったのは、今から35年ほど前の1980年代中頃のことでした。当時は米国カリフォルニア州サンフランシスコ郊外にあるスタンフォード大学で研究生をする傍ら、地元の社会人サッカークラブに所属してプレーをしていました。英国人が主体のクラブだったのですが、仲の良かったチームメイトの一人、マーク・イーデン(Mark Eden)がロンドン出身のチェルシー・サポーターで、チェルシーのことをいろいろと教えてくれたのです。それ以前にも好きなサッカー選手はたくさんいましたし、興味を持って試合を観るクラブもいくつかありましたが、以来自分がサポートするクラブはチェルシー以外にはないと思いました。でも、当時の米国では、英国サッカーのテレビ中継もなく、もちろんインターネットも存在しませんでしたので、手に入るチェルシーの情報は新聞のスポーツ欄に掲載される試合結果ぐらいでした。その後、衛星中継が発達し、ケーブルテレビにもスポーツチャンネルが登場する事で、チェルシーの試合もスポーツパブのテレビで時々ですが観ることができるようになりました。入ってくるチェルシーの情報が増えるとともに、私のチェルシーへの入れ込み具合も徐々に深くなっていったことは自然の成り行きでした。

私がチェルシーにさらに深く関わり合うことになるきっかけは、1999年にロンドンに引っ越したことでしたが(そのことはまた別の機会に書こうと思います)、今から思うと、私がロンドンに引っ越すことになったり、あるいは日本に戻ってからサポーターズ・クラブを創設することになったりしたことなどのすべては、自分の運命だったのではないかと感じています。御存知のように、チェルシーの創設は今から115年ほど前の1905年ですが、何と私の御先祖がその頃のロンドンに滞在していたことが最近わかったのです。私の母方の曽祖父は、長崎県にあった佐世保海軍工廠に務める造船技師だったのですが、日本国政府が英国に「金剛」と「比叡」という戦艦の建造を依頼した際に、完成した二隻を英国から日本まで運行してくる廻航委員の一人に任命されていたという記録が見つかったのです。戦艦を建造したのはチェルシーの隣街ウエストミンスターに本社があったヴィッカース社で、リバプールの造船所で建造されました。記録によると二隻の軍艦は、1913年 8月15日に竣工され、同じ年の11月5日に横須賀に到着したとあります。私の曽祖父がチェルシーの試合を実際に観戦したという記録は残っていないのですが、当時のことですから英国滞在は長期に亘ったはずで、近所にあったスタムフォード・ブリッジへ創設されたばかりのチェルシーの試合を観戦に行ったことがあったとしても不思議ではありません。私はきっとそうに違いなかったと思いますし、その時にできたチェルシーと曽祖父の縁が私に受け継がれてきたのではないかと感じるのです。

次回のコラムでは、私がロンドンに引っ越してからチェルシーに深く関わり合っていった思い出を書こうと思います。

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