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「帰るのが嬉しくて泣いていた」マテオ・コヴァチッチ、クロアチアへの愛を語る

マテオ・コヴァチッチは、オーストリア育ちだが、クロアチア人としての誇りを胸に、今日のユーロ2020イングランド戦で母国代表としてピッチに立つと見込まれる。ここでは、彼自身の言葉で、幼少期、祖国への帰還、そしてターニングポイントとなった人生の節目を振り返る。

私のキャリアと人生において、家族をもっとも大切にしている。彼らがいなければ、今の私はなかっただろう。  

私のために多くのことを犠牲にしてくれた。そのことを忘れたことは一度もない。

オーストリアのリンツで生まれ、サッカーをしたり、12歳まで学校に通ったりと、普通の生活を送っていた。リンツは静かで良いところで、近所にはオーストリア人しかいなかったから、すぐにドイツ語を覚えることもできた。

家族の中には常にスポーツがあった。趣味だったけど母はバレーボールが得意で、父はバスケットボールをしていた。

父と母は、私にプレッシャーをかけることなく、常にサポートしてくれた。私が子供の頃、父は私の試合をビデオカメラで撮影し、それをみんなで見ていたね。

分析するわけでもなく、プレッシャーをかけることもなく、ちょっとした楽しみのためにビデオを見ていたんだ。今でもビデオをいくつか持っていて、昔のことを思い出したいとき、それを見るんだ。

またスポーツと同じように、教会も家族の生活の一部だった。私の両親は、今あるものに感謝するように育ててくれた。勝つために祈ることはなく、いつも感謝の気持ちを伝えるためだけに祈るんだ。なぜなら、私は神と家族に感謝しているからね。

私はオーストリアで生まれたクロアチア人少年で、12歳のときにクロアチアで行われた大会に出場した。その後、ディナモ・ザグレブが私に興味を持っていると聞いたんだ。私にとってディナモはとても特別な存在だったから、とても嬉しかった。そして、2、3ヶ月後にオファーがあった。最終的には、家族全員がクロアチアに引っ越すほど、私を必要としてくれたんだ。

父から「息子よ、みんなで帰るぞ」と言われたときは、うれしくて泣いていたのを覚えている。私のキャリアの中で最高の決断だったと思う。

 

私たちがクロアチアに引っ越すずっと前、両親と祖父母はクロアチアに家を建てていて、私たちはいつもそこで休暇を過ごしていた。土地を購入して建て始めたが、私と妹達がオーストリアの学校に通っていて、学校も良かったから、まさかそこに引っ越すとは思っていなかった。結局、ザグレブとクロアチアへの愛が大きすぎて、私たちは祖国に戻ってきて、祖父と祖母がまだ住んでいた家に住むことになったんだ。

ディナモでプレーする機会を得たのは素晴らしいことだった。初めて試合に出たときは信じられないくらい嬉しかった。しかし、2年後、14歳のときに足を骨折するという大きな問題があった。今振り返るとその経験は、サッカー人生だけでなく、人生において最も重要な時期のひとつになっている。

その1年で多くのことを学んだ。こういうと馬鹿げているが、ある意味、私にとっては最高の出来事だった。私がリハビリを行った場所には、重傷を負った子どもたちがたくさんいて、中には足がない子や麻痺している子もいたんだ、彼らはそこで理学療法や動作のサポートを受けていた。

子供たちと一緒の部屋にいたとき、私は運が良かった、私の怪我は大したことがない、私よりも悪いケースがたくさんあることに気付いたんだ。私の場合はただの足の骨折で、そのうち良くなってまた歩けるようになるだろうと理解した。そうわかって嬉しかったし、ピッチにも戻れるように神様に祈った。

また、その年に出会った妻とは、今では10年以上も一緒に暮らしているし、その頃からずっと一緒に過ごしてきた、そして今も一緒にいる友人たちとも出会った。足を折ったこの1年は、私にたくさんの幸せを与えてくれたんだ。私にとって、妻、家族、そして友人は最も大切なものだからね。あの困難な時期に私は大きく成長し、ピッチに戻ってくることができた。

私はサッカーのおかげで、いくつかの素晴らしい都市に住むこともできた。ザグレブを離れてからは、ミラノ、マドリード、そして今はロンドンに住んでいる。いつも街の中心部に住んでいるので、たまに妻と一緒に散歩するのが好きなんだ。でもずっと外に出るより家で家族と過ごす時間の方が好きだね。

幸運なことに、クロアチア語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、英語と、たくさんの言語を学ぶこともできた。そして、これらの場所でサッカーについて学ぶことも素晴らしい経験だった。このスポーツは本当に私に多くのものを与えてくれたよ。

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